プロローグ|近くて、遥かかなたの煌き
あの頃、一緒に暮らしていた。
驚くほど記憶力がよく、決めたことを淡々とやり遂げる人だった。
気づけば、自分がどこかで諦めていたものを、当然のように手にしていくのを見ていた。
それが誇らしくもあり、どこか、はるか遠くに感じることもあった。
一緒にいる空気や、ふとした笑い声に救われる夜があった。
同じくらい、目を逸らしたい感情も隣にあった気がする。
あの頃の自分は、ただ何かを証明したくて必死だった。
同時に、あの生活をどうにか守りたい気持ちもあった。
たぶん、その焦りの延長に、あの会社があった。
気づいたときには、もう引き返せない場所に立っていた。
第1章|夢の終わり、社宅の始まり
司法を目指す。それが当時の俺にとって、至上命題だった。
机の上には、ポケット六法と伊藤塾のテキストが開かれたまま。
渋谷で最近オープンした定食屋のバイトは生活費と授業料のため。民法より家計簿。六法よりレシート。食費、光熱費、家賃。電卓を叩くたび、何かが遠ざかっていった。バイト先で、2、3歳下で一見大変快活で、驚くほど頭の回転が速く、そして恐ろしく記憶力がよい女性と出会った。しかし、たまに見せる黙ったときの表情は、どこか絶望にも似た表情をしていた。しばらくして、生活のため、一緒に暮らすことになった。多大な影響を与えてくれた一人であることは間違いないが、ここで述べることは差し控える。そして、安堵と引き換えに、静かに失っていくものがあった。
テキストを開く手が止まる夜が増えた。目を閉じると、知らないうちに朝が来ていた。
そんなとき、求人誌DUDAに、「社宅半額補助あり。正社員登用制度あり。営業職未経験可。未経験でも初月30万。」
もう少しだけ、余裕がほしい。“まぁ、しばらくやってみるか”そんな軽さだった。だが、その一歩が、思っていたよりずっと深く、遠いところへ連れていくとは、そのときはまだ知らなかった。
第2章|仏の佐津
面接は西新宿のビルの一室だった。
ドアを開けると、受付の女性が迎えた。そして、少し遅れて奥の部屋から男が出てきた。
スキンヘッドにメタルフレームの丸眼鏡。
グレーのスーツで、一見、僧侶のような穏やかさを纏ったその男が、社長の無坂だった。
「うちはね、君みたいな人を育てたいんだよ。」落ち着きのある声だった。
面接を終え、採用の電話を受け、翌日から出社となった。
入社初日、佐津が出迎えた。「仏の佐津」。社内でそう呼ばれていた。
高身長で笑顔を絶やさず、声も柔らかい。バーコードの髪を気にする愛嬌があった。
「営業ってのはね、型があるからさ。まずこれを覚えよっか。」
「コンコン、失礼します。NTT販売店リメンバーハーバーの佐津と申します。社長さんいらっしゃいますか?」
これが営業というものなのか。胸の奥で、鈍い違和感が動いた。
第3章|考えるな、言え。—Don’t think, talk.
最初から「トークを覚えろ」だった。一字一句変えるな。そのため、1週間ロールプレイが繰り返された。
断りがくると、テンポが狂ってセリフが飛ぶ。そして、何度も何度もやり直しを命じられた。
営業って、お客さんと話をするんじゃないの?心の中で何度も呟いた。
「(コンコン)、失礼します」
「NTT販売店、リメンバーハーバーの川上と申します。来週から取りまとめて工事を行いますんで。社長さんでいらっしゃいますか?」
返事を待たずに言葉を継ぐ。
「今、何回線使ってますか?」
さも専門家のように、画板に挟んだ用紙に現状の回線状況を図示していく。
喋りながら、心の中で疑問がわく。これ、本当に正しいのか。
「うちの会社が“NTT販売店”って言っていいのか」
「“取りまとめて工事”って、ほとんど誤認じゃないのか」
断られた後のトークも、呪文のように覚えた。
「まず言え。相手の反応は気にするな」
「黙るな。止まるな。続けろ」
気づけば、口だけが先に動くようになっていた。
「(コンコン)、失礼します」
なんだこれ。
こんなもん、バカにしか続けられないだろ。
心の中は、もうずっと冷えていた。
第4章|アポインター、クローザーへの道
現場は東京全域で、日によってエリアが変わった。
地図を片手に歩いて、順番に企業のインターホンを押す。
120分のカセットテープを録音機器にセットし、RECをONにして歩き出す。
予備のテープ2本はカバンの中だ。
俺の声が延々と吹きこまれていく。
「1日最低100件くらいかな。」
入社初日、そう告げられた。
よく分からないまま、手渡された地図と名刺。
要するに、朝から晩までずっとビルに飛び込んでインターホンを押し続けろということだった。
扱う商品は、NTTのビジネスホン。
「電話代、安くなりますよ。」
そう言うと、それでも一応は話を聞いてくれる人もいた。
けれど、大半は戸惑った顔で「忙しいから」とだけ言って扉を閉めた。
アポが取れれば、その場で契約……ではない。
“クローザー”という別班がいて、彼らにバトンを渡すまでが俺の役割だった。
営業というより、ただの手先だ。
アポが取れなければ、人としてすら扱われない。
その日の19時には、公衆電話から無坂に日時報告を行うことが習わしだった。
アポが1件も取れなかった日は、
「もしもし!川上です! 本日、アポゼロ件です! 申し訳ございません!!」
と、50メートル先まで届くような声でがなり立てる。
通行人が振り返る。
その視線に、自分でも情けなくなる。
恥ずかしいという感情より、声を出さないと無坂の逆鱗に触れて面倒なことになるのが嫌で、しょうがなく必死さを演じていた。
事務所に戻れば録音を再生され、無坂に言われる。
「なんだ、ボソボソしゃべりやがって。このキチガイ。」
そして、真夜中までトーク練習。
なんだこれ。こんなもん、バカにしか続けられないだろう。
そう思いながらも、俺は今日も声を張り上げるしかなかった。
第5章|包丁とタルト
その日も順番に飛び込み営業をしていた。訪れたのは、小さな洋菓子店だった。
ガラス越しに見える様子から、穏やかな店主だろうと思いながら、のんきに自動ドアを開けた。
「失礼します! NTT販売店、リメンバーハーバーの……」
「おまえら営業か!? いい加減にしろよ!!」
殺気に満ちた店主が、言い終わるや否や、店の奥へ引っ込んだ。
次に現れたとき、手には包丁を握りしめており、
「ぶっ殺すぞ!」と叫びながら、自動ドアまで迫ってくる。
上司と二人で素早く後ずさりし、店から離れた。
心臓がバクバクした。そんなに悪いことをしただろうか、と思った。
一方で、恐怖を通り越して、こんなことが現実に起こったことに可笑しさも込み上げる。
息を整えると、上司は頬を引きつらせながらも笑っていた。
「あるよ、こういうの。」
この人は、こういう世界に“慣れている”側の人間だ。
あのパンチパーマに髭を蓄え、青白く怒りに満ちた店主の形相は、今も目の奥に焼き付いたままだ。
第6章|営業車キューブの試練
ほどなくして、営業車として水色の日産キューブを支給された。
当時は四角い見た目が新鮮だった。
ペーパードライバーで運転は得意じゃなかったが、慣れるしかなかった。
ある日、営業先を回っていると、突然明らかに足回りがおかしくなったと感じた。
降りてみると、タイヤに釘が刺さっている。晴天の霹靂。
そして、ああ、少し営業から外れる時間ができる。ラッキー……という思いがよぎる。
どうすればいいか迷ったが、とりあえずJAFを呼んで対応してもらった。
別の日、無坂が銀座に向かうという。
高速に乗り、何故かスピードを出して、無坂に貢献したい気持ちに駆られていた。
いつもよりずいぶんスピードが出ていたのだろう。案の定、覆面のサイレンが鳴る。
警察に捕まってしまったことには、何も感情が生まれない。
アポが取れずに日時報告することに比べれば、なんでもない事だ。
警察の切符の手続きを終えると、無坂は「なんか早えと思ってたんだよ」とだけ言った。
特に怒り出すこともなく、時が過ぎた。
営業車というのは、ただの移動手段なんかじゃなかった。
道に出ている限り、トラブルの鉄の塊だった。
第7章|千葉リーヒルズ、午前3時迄の研修と孫子(まごこ)
今日はアポゼロだった。
営業を終え、新宿の事務所へ戻る。
無坂から上司に電話があり、「今から千葉へ来い、とのことだ。」と告げられた。
そのまま、無坂のポルシェの運転手を務めている豆井の運転で、千葉の山あいに向かった。
まさに豪邸。社内では“千葉リーヒルズ”と呼ばれていた無坂の邸宅だ。
公共の宿のように大きく、重厚な造りをしていた。
22時からトーク練習が始まり、午前3時まで続いた。
はじめは豆井とトーク練習をしていたが、むしゃくしゃしていた無坂に頭を小突かれ、そのまま別室へと消えた。
代わりに、無坂の“お付き合いの相手”らしい孫子(まごこ、と呼ばれていた)がトーク練習の相手になった。
六本木のホステスのような一際目を引く美しい女性だったが、もちろん私語はない。
ただ延々と、3時までトーク練習が続く。
終わると、その場でゴロンと横になり、朝6時に目を覚まし、7時には東京へ向かう。
高速道路を走行中、前を走る車が突然車線を変えた。
驚いて前方を確認すると、2mほどのひらひら舞う物が見えた。
次の瞬間、それがキューブのフロントグリルにガン!と張り付き、地面をガシャーと擦りながら停車した。
解体工事車両から落ちた、トタン板の瓦礫の類だった。
車を側道に停めて、ただ呆然としていた。
なぜ立て続けにこんなことが起こるのか。
全ての歯車がかみ合ってしまい、インシデントを手繰り寄せてくる。
第8章|蝶々の舞
今日もアポゼロ件で、新宿に戻る。
いきなり電話が鳴り、上司が受話器を取る。無坂からだ。
「申し訳ございません。」
「おい、踊らせろ。ちょうちょうを。」
目線がこちらに向く。
「裸になって、ちょうちょうを唄いながら踊れ。」
……は?
頭が真っ白になった。
けれど、体が勝手に動いた。羞恥心なんて、とっくに擦り切れていたのかもしれない。
あるいは、もう何も考えたくなかっただけかもしれない。脱いだ。
蝶々を唄いながら、手をひらひらさせて、部屋の真ん中で踊った。
先輩たちは、笑いをかみ殺しているようだった。
「踊ったか?」
「はい、踊りました!」
上司が答える。
あの瞬間の“無”になった感覚は、今も残っている。
ただの“無”だ。
第9章|藤原氏と賃貸借契約書
藤原という男がいた。
元NTT社員で、丁寧なトークで一見まともに見えるが、実は借金まみれの男だった。
ある日、藤原が言った。
「頼む、10万だけ貸してくれ。絶対すぐ返すから。な、頼むよ」
当時の俺にとって10万円は大きかった。
でも少しだけ、頼られた気がして、つい貸してしまった。
もちろん、法学部でかじった知識を元に賃貸借契約を書面で結んだ。
1割の利息を記載することも忘れなかった。すごい利息だ。
それから数週間。
「どうするんですか?」と聞いても、
藤原は「返す返す。来週、必ず返す。待ってくれ。」を数回繰り返した。
ある時には、上司とともに酒を飲みに行った時、藤原もいたのだが、
「藤原、キャバクラのあの子はどうなったんだ?」
「それがさ、XXX。XXXX。」
やはり、そういうことか。
ついに痺れを切らして、無坂に相談した。
すると、「だから、面接の時に言ったじゃねぇか。金銭の貸し借りは禁止と。」
「藤原、ちゃんと返してやれ。」と言った。
全然、心に留めていなかったが、こういうことなのか。金の貸し借りは禁止の意味は、と学んだ。
契約書を無坂に見せると、あまりの可笑しさに吹き出して笑っていた。紙なんか、現実の前では無力。
借金取りのプロが存在する理由が少し理解できた気がした。
藤原は、彼の姉さんを頼った。藤原と共に車でアパートに向かった。
何やら話し込んでいたが、姉さんが叫び出した。「いい加減にしなよ!」
どうやら、これまでも散々迷惑をかけてきていたらしい。
「だめだった。」それが現実だった。
次の給料日には、耳を揃えて、利息もつけずに返ってきた。
無坂が手をまわしてくれたのかもしれない。
第10章|岡高とオメガ
岡高は、まるで相撲取りのような体格の男だった。
豪快な笑い声で、社内でも目立っていた。
ある日、岡高が俺に近寄り、
「おう、川上、これで10万貸してくれ!」
彼は断られるとは思っていない様子で、自信満々にオメガの腕時計を目の前に差し出してきた。
一瞬、言葉に詰まったが、いやいやいや、と苦笑いした。
岡高は歯牙にもかけず、「そっか」と去っていった。
何だったんだろう。オメガは何かを証明したがっているように見えた。
営業の世界は、稼げるやつには夢が見える。
稼げないやつには、プライドすら、あっけなく質草になる。
岡高の背中が、それを教えてくれた。
第11章|尖った革靴と作業服
あの夜、なぜ呼ばれたのか。
警察にスピード違反の切符を切られた後、NTT販売店の作業服のまま、無坂を銀座のクラブへ送迎した。
高級感が漂う中にも、少しアットホームな店内。
ゴージャスなシャンデリアやドレスを着た女性はいない。
とても上品な女性たちが無坂をもてなす。
「こいつ、がんばってんだよ」
ホステスたちにそう紹介され、俺は引きつった笑顔を浮かべた。
空気を壊さないように。
営業成績よりも、空気を読む力を試される夜だった。
帰り際、無坂が「川上、こういう店いいだろ。」
酒も飲めないし、女性に求めているものが違った俺にはさっぱり良さが分からず、黙っていた。
無坂の足元を見ると、信じられないほど尖った革靴。
そして、ドルチェ&ガッバーナの一張羅。まるでピエロのようだった。
ただ、それに作業服で付き従っていた自分こそ、何より滑稽だった。
第12章|小さな呼吸
無坂は暇さえあればジムに通い、筋肉隆々の空手家だった。
俺が営業から戻ると、ときどきスパーリングに誘われた。
革靴のまま軽く拳を交えるが、やはり「軽く」で済むことは少ない。
ある日も、そんな“いつものノリ”だったはずだ。
だが突然、ズシンと胸板に重いパンチが入った。
しかし、そのままスパーリングを続けた。
夜中、息苦しさが止まらなかった。
自転車をこいで病院へ行くと、診断は肺気胸。左肺がしぼんでいた。
手術は翌朝だったか、記憶があいまいだ。
直径2センチほどの管を肋骨の隙間に通された。
全身麻酔が甘く、遠くで骨をかき分けてパイプを押し込まれる感覚があり、大変な激痛を伴った。
入院は3週間。
何してんだ、俺。そう思った。
でも戻らざるを得ない。
社宅の規定では、半年在籍しないと退去だったから。
理由はそれだけだ。
※見舞い:母、あのこ、あいつら。とあいつ。
第13章|復帰、そして社宅の呪縛。
退院して最初に考えたのは、社宅のことだった。
辞めれば、家賃補助が一気に跳ね返ってくる。
戻るしかなかった。
ただ、この期間に考えることができた。
今後の身の振り方を。
会社に連絡を入れると、思いのほか歓迎された。
復帰初日、上司が言った。
「おまえ、よく戻ったな。まあ、これからは少し楽な仕事にしてやるよ」
配属は既存顧客へのルート営業。
新規飛び込みと比較にならないほど穏やかな仕事だった。
けれど、何かは壊れたままだった。
自分の中で、夢の一片でも残っていただろうか。
結局、理由はただ一つ。
社宅を失えば生活が成り立たなかった。
第14章|高速バスからの風景
あれから、20年。
今日、茨城への出張で、高速バスに乗っている。
窓の外には、田園と林がゆっくり流れていく。
ふと、千葉の“研修所”を思い出した。
夜、NTT販売店の作業着のまま連れていかれた無坂の家。
声を張り上げ、午前3時まで続いたトーク練習。
湿った床の感触。
あの頃、毎日が戦場だった。
でも、いまは違う。
窓の外は、ただの田舎道だ。
胸はもう痛まない。
腹も立たない。
残ったのは、懐かしさと、ほんの少しの誇りだけ。
それだけで、もう十分だった。
第15章|足跡
あの会社を辞めたとき、思い出したくないとも、なんとも感じなかった。ただ、ようやく終わったと思った。
より大きなことを抱えていたからかもしれない。
抜け出す手は打った。幸運にも、次の会社で20年間勤めあげることができた。
時間は不思議だ。
ちょうちょうを唄った夜。
銀座のクラブ。
肺にパイプを突っ込まれた中野の病室。
包丁を持ったケーキ屋の親父。
10万円を持ち逃げしようとした藤原。
今では全部、笑える。彩をありがとう。
あの頃を思い出しても、もう心はざわつかない。
むしろ、あの時間があったからこそ、大抵のことはたわいのない事に思える。
たとえ誰かにとってはくだらない地獄でも、俺にとっては確かな足跡だった。
エピローグ|めぐる季節と種
あの人は、ずっと何かを抱えて立っていた。
言葉にしないことの重さを知り、言葉にする強さも持っていた。
幼いころから背負ってきたものがあって、それがゆえに逞しく眩しかった。
自分には届かない領域があるのを、初めから分かっていたような気がする。
ただ、一緒だった時間の中で、何度も思った。
この人となら、何かが変わるんじゃないかと。
すべてを差し出せば、きっと別の何かを手にできる気がしていた。
あの頃の自分にとっては、それが唯一の希望のかたちだった。
そして、時間が経つうちに、いろんなものが少しずつ変わっていった。
静かに手放したものも、きっと少なくなかった。
だが、受け取れたもののほうが圧倒的に多かったのでは、ないだろうか。
今になって思う。
あのときの自分は、何かを手に入れたかったのかもしれないけれど、
同じくらい、何かを赦されたいとも願っていたのかもしれない。
笑い声も、悲しみも、人の強さも。
あの時間に押しつぶされて、しばらくは何も見たくないと思った。
でも、振り返ってみれば、それも含めて自分を育てる種だった気がする。
今はもう、あの頃より少しだけ強くなれたと思う。